第1話 大女優からの、とんでもないお願い
ドラマや映画で主役を張る国民的女優、「河瀬あゆみ」。今、その彼女が、俺の目の前にいる。
彼女は、俺の従姉(いとこ)だ。 二つ年上の彼女のことを、幼い頃の俺は「あゆみ姉ちゃん」と呼び、その後ろを金魚のフンのようについて回っていた。
高校を卒業すると同時に、彼女は、女優になるために長野の田舎町を飛び出し、東京に向かった。それから茶の間の顔になるまで、そう時間はかからなかった。気づけば、最後に言葉を交わしてから20年もの月日が流れていた。
1月1日。元日のこの日、俺は本家の正月行事のために帰省していた。毎年親戚が集まって食事会をするのが恒例だが、俺自身、ここへ顔を出すのは随分と久しぶりだった。三十路を過ぎて未だ独身であることを親戚中に突っ込まれるのは目に見えているし、何より帰省そのものが億劫だったからだ。
それでも長野の凍てつく空気を突っ切ってやってきたのは、親から「あゆみが来るかもしれない」という報せがあったからだ。
「……じゃあ、行こうかな」
あんなに渋っていたのが嘘のように、俺は出席を決めた。
ずっと、姉ちゃんのことが好きだった。 今や雲の上の存在になってしまったけれど、一目だけでもいい、今の彼女に会いたいと願わずにはいられなかった。
親の情報は確かだった。 親戚たちが続々と集まり、宴の盛り上がりも最高潮になった頃、彼女は現れた。
「あゆみが来たぞ!」
誰かの声で、場がにわかに活気づく。
あゆみ姉ちゃんは、親戚の集まりらしく甲斐甲斐しく手伝いをしようとしていたが、周囲がそれを許さなかった。
「国民的大女優にそんなことさせられるか!」と無理やり席に座らされ、瞬く間に人だかりができた。どこから聞きつけたのか、近所の子どもたちまでが玄関先に顔を出し、色紙を手にサインを求めている。
俺は喧騒から少し離れた場所で、その光景をぼんやりと眺めていた。
そこにいるのは、間違いなくテレビで見かける、あの「河瀬あゆみ」だった。
あまりに綺麗で、一人だけ発光しているかのようにキラキラと輝いている。
不意に、彼女がこちらに視線を向けた。 目が合った、と思った次の瞬間、彼女は人混みを鮮やかにかき分けて、俺の隣へとやってきた。
「たけちゃんじゃん! 久しぶり。なに人のことジロジロ見てるのよ」
屈託のない笑顔。その呼び名に、心臓が跳ねる。
「……あゆみ姉ちゃん。もう、たけちゃんなんて呼ぶなよ。いい大人なんだから……それに、目の前にこんな大女優がいれば、誰だって見ちゃうだろ」
「何が大女優よ。からかうんじゃないわよ」
姉ちゃんは片手に持ったビールグラスを揺らしながら、ケタケタと愉快そうに笑った。
その姿は、画面の中の清楚なヒロインとは違う、俺の知っている「従姉の姉ちゃん」のままだ。
彼女は手元のウーロン茶に目を留めると、不思議そうに首を傾げた。
「ところで、なんでお酒飲んでないの? お酒飲めないんだっけ」
「いや、今日中に東京に戻らなきゃいけなくてさ。車で来てるから飲めないんだよ」
俺の答えを聞いた瞬間、彼女の瞳がいたずらっぽく輝いた。
「そうなんだ。あっ、ちょうどよかった! じゃあさ、私も東京まで乗せていってくれない?」
さらりと言ってのけた、あまりに突拍子もない提案。
日本中の視線を釘付けにする「大女優」の無防備な言葉に、俺はただ戸惑い、答えに詰まってしまった。
第2話に続く
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※この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは一切関係ありません。

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