第3話 秘密基地の約束、それぞれの旅立ち
あゆみ姉ちゃんが高校三年生の夏、一生忘れられない「事件」が起きた。
夏休みの真っ只中、夜の十時を回った頃だった。
あゆみ姉ちゃんの母親である伯母が、血相を変えて俺の家に飛び込んできた。
「あゆみが家出したの!こっちに来てない!?」
緊迫した伯母の声に、家中の空気が凍りついた。伯父は近所を必死に探し回っているらしく、彼女の携帯も何度鳴らしても繋がらないという。
「ここには来てないよ。一体、何があったんだ?」
親父が尋ねると、伯母は今にも泣き出しそうな顔で事情を話し始めた。
憧れの女優がいて、自分もあんなふうになりたいと、あゆみ姉ちゃんが突然言い出したのだという。だが、進学を控えた時期の突拍子もない告白に、伯母たちは激昂した。「女優になんかなれっこない」「現実を見なさい」――。 夫婦で猛反対した結果、彼女は夜の闇へと飛び出してしまったのだ。
「たけちゃん、あゆみの行きそうな場所に心当たりはない?」
必死に縋るような伯母の問いに、俺は
「……ちょっと、分からないよ」
とだけ答えた。
嘘だった。 俺には、確信に近い場所があった。
それは、小学生の頃に二人で見つけた「秘密基地」。人通りの絶えた道の奥にある、防空壕のような古びた洞窟だ。電気もなく、昼間でも薄暗いその場所で、俺たちは漫画を持ち寄っては日が暮れるまで過ごした。
中学生になり、足が遠のいてからも、親と喧嘩した時や一人になりたい時、俺は吸い寄せられるようにそこへ向かった。そこで泣いている彼女の姿を見かけ、あえて声をかけずに通り過ぎたこともあった。
「あそこにいるはずだ」
俺は親たちの目を盗んでこっそり家を抜け出し、自転車を走らせた。心細いライトの光で真っ暗な夜道を切り裂き、洞窟へ辿り着く。
「もし、姉ちゃんじゃなくて、得体の知れない誰かがいたら」
そんな恐怖を振り払い、懐中電灯を握りしめて中を覗き込むと、奥にうずくまる小さな人影が見えた。
足を踏み入れた瞬間、その影がビクッと肩を揺らした。
「……姉ちゃん、そこにいるのか?」
声をかけた刹那、人影が勢いよく飛び出し、泣きじゃくりながら俺に抱きついてきた。
あゆみ姉ちゃんだった。
懐中電灯に照らされた彼女の顔は、涙と土にまみれてぐちゃぐちゃだった。俺は何も言わず、ただ彼女を強く抱きしめた。震える肩を感じながら、「よしよし」と、壊れ物を扱うようにその頭を撫でる。この時ばかりは、俺の方が兄貴になったような気分だった。
「姉ちゃん、みんな心配してる。帰ろう」
「……うん……」
重い腰を上げた彼女は、俺の家へと向かう道すがら、溜まっていた想いを吐き出すように語り始めた。
目指したい夢のこと。親に否定された悔しさ。自分の進路は、自分で決めたいという強い意志。俺は何か気の利いたアドバイスができるわけでもなく、ただ隣で耳を傾けた。
話すうちに、彼女の瞳にはいつもの輝きが戻っていった。
「ところで、たけちゃんは、なんでここに来たの?」
「伯母さんがパニックになっててさ。あゆみ姉ちゃんなら、あそこにいると思ったんだよ」
「そっか……ありがとね。実は、すんごく怖かったんだ。真っ暗でさ」
家に着くと、今度は俺までいなくなったと大騒ぎになっていた。だが、泥だらけの二人が揃って帰ってきた姿を見て、大人たちは深い溜息をつき、その日は「ゆっくり休め」とだけ言って解散になった。
その後、彼女が家族とどんな激論を交わしたのかは知らない。ただ、彼女は宣言通り、高校卒業と同時に東京へと旅立った。
それ以来、俺にとっての「あゆみ姉ちゃん」は、スクリーン越しにしか触れられない「河瀬あゆみ」になったのだ。
回想から引き戻されるように、車のタイヤが刻む走行音が耳に届く。高速道路を走り始めて一時間。助手席で遠くを見つめていた姉ちゃんが、ふと口を開いた。
「ちょっと休憩しようか。次のサービスエリア、止まってよ」
その声はどこか、あの夏の夜の秘密基地で見せた、弱々しくも真っ直ぐな響きを帯びていた。
第4話に続く
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※この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは一切関係ありません。


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