第2話 密室の二人、「大女優」が「姉ちゃん」に戻る時間
長野の本家を後にしたのは、夜の九時を回った頃だった。
親戚たちに余計な騒ぎを起こさせないよう、まずは俺が先に外へ出て、闇に紛れるように車に乗り込んだ。数分後、トイレに立つふりをして母屋を抜け出してきた姉ちゃんが、足早に助手席へと滑り込む。
その時、姉ちゃんの母親である伯母が、ひっそりと玄関先まで見送りに現れた。
「もう行っちゃうのね……。あゆみ、また連絡して。じゃあ、たけちゃん、お願いね」
伯母の、娘を案じるような、どこか沈んだ表情が街灯に照らされて一瞬だけ見えた。
その胸騒ぎの正体を知ることになるのは、もう少し後のことだ。
バタン、とドアが閉まる。車内に満ちたのは、冬の冷気と、彼女の髪から漂う微かな香水の匂い。そのあまりに都会的で洗練された香りに、俺の心臓はうるさいほど音を立てた。
隣に座っているのは、日本中の憧れを一身に背負う「河瀬あゆみ」だ。そう意識した途端、喉がカラカラに干上がって、言葉が出てこない。
俺はただ運転に集中するふりをして、無言のままアクセルを踏み込んだ。
沈黙を切り裂いたのは、姉ちゃんの明るい声だった。
「たけちゃん、今、なんの仕事してるの?」
「……普通の会社員だよ。IT関係。毎日パソコンに向き合ってるだけさ。それより、あゆみさんこそ凄いよな。テレビで見ない日はないだろ」
精一杯の敬語混じりで返した俺に、彼女は不満げに唇を尖らせた。
「なによ、『あゆみさん』って。さっきまで『あゆみ姉ちゃん』って呼んでたじゃない」
「いや、だって……二人きりになると、どうしても意識しちゃって」
「意識しすぎ! このっ、こいつーー!」
そう言って、姉ちゃんは運転席に身を乗り出し、俺の頭をぐしゃぐしゃとかき回した。
「ちょっと、運転中だってば!」
俺が困った声を上げると、彼女は満足そうにケタケタと笑った。
その瞬間、張り詰めていた空気がふっと緩んだ。
20年の空白が消え、昔の「姉ちゃん」と「たけちゃん」に戻れた気がした。
俺たちにお互い兄弟はおらず、一人っ子同士だった。
年齢が近かったこともあり、小・中・高校はずっと一緒。姉ちゃんは俺を弟のように世話し、俺もまた、彼女を実の姉のように慕っていた。
小学校三年生の頃、同級生にいじめられて泣いていた俺を、毅然とした態度で助け出してくれたのも姉ちゃんだった。
そんな彼女を「異性」として意識し始めたのは、彼女が中学生になった頃だ。
幼さが消え、みるみる大人びていく彼女。今思えば、現在の「河瀬あゆみ」の美しさの片鱗は、すでにあの時期に完成されていた。
高校生になると生活のリズムが変わり、顔を合わせるのは年に数回くらいになった。そのうちの一つが正月行事だ。
正月行事では、姉ちゃんはよく歌を歌っていた。俺とテレビゲームで遊んでくれた。そんな時間は、俺にとって何よりの宝物だった。
どんどん綺麗になっていく姉ちゃんを、俺はいつも盗み見るようにして追っていた。
時々視線がぶつかると、心臓が跳ね上がり、慌てて目を逸らしてごまかす。そんな俺の初々しい片想いを、きっと彼女は気づいていただろう。
「従姉」という、決して超えられない境界線。それが分かっているからこそ、俺の想いはより深く、逃げ場のないものへと膨れ上がっていったのだ。
そんな中、姉ちゃんが高校三年生の時、ある「事件」が起きた。
第3話に続く
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※この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは一切関係ありません。


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