第1話 あゆみとの壁
あゆみを送り届けてから、一時間が過ぎた。
自分のアパートに戻ってからもう三十分は経つのに、俺はスマホを握りしめたまま、彼女に「着いた」の一言さえ送れずにいた。
目の前のテレビを点ければ、数分もしないうちにあゆみが現れる。ビールのCMで微笑み、ドラマの予告で涙を流す彼女。
(……やっぱり、住む世界が違いすぎるよな)
ついさっきまで隣にいた温もりが、まるで質の高い映画を観たあとの残像のように思えてくる。
そんな俺の躊躇いを吹き飛ばしたのは、彼女からの通知だった。
「今日はありがとね。まだ着いてない?」
その短い文面に、固まっていた指先が動く。
「さっき着いたところ。ちょっと夢かと思って、ぼーっとしちゃってた」
「なにそれ(笑)夢じゃないからね、たける。じゃあ、またメッセージ送るね。おやすみ」
「うん。ありがとう。おやすみ」
たったそれだけのやり取りで頬が緩むのが分かった。
大女優であるあゆみ、従姉であるあゆみ、そして今、俺のスマホの向こう側にいるあゆみ。すべてが「現実」なのだ。俺はそれをゆっくりと噛み締めながら、夜の静寂に身を委ねた。
それからは、数日に一度のペースでやり取りが続いた。
「今日は〇〇で撮影だったよ」とか「お昼のお弁当が美味しかった」とか、 彼女から送られてくるのは、他愛のない仕事の断片ばかり。
(俺とのメッセージ、仕事の邪魔になってないかな……)
返信を打つたびに、そんな不安が頭をもたげる。彼女を支えたい自分と、迷惑になりたくない自分が胸の中でせめぎ合い、自分の本当の気持ちが見えなくなっていた。
二月に入ると、あゆみからのメッセージがぴたりと途絶えた。
(きっと、立て込んでいるんだろう)
そう自分に言い聞かせても、連絡がない日が増えるたびに胸のざわつきは大きくなる。
あゆみから来るのを待つばかりだった俺が、初めて自分からメッセージを打った。
「お疲れ様。最近、忙しいの?」
画面を見つめるが、既読は付かない。
二日、三日――。既読の付かない画面が、俺たちの「距離」を突きつけてくるようだった。
やっぱり、一歩引く覚悟を決めなきゃいけないのかもしれない。そう自分を納得させようとした、その時だった。
枕元のスマホが、命を宿したように激しく震え出した。 画面に躍る『あゆみ』の文字。
「……もしもし。最近、メッセージ確認できなかった。ごめんね!やっと落ち着いた!」
受話器越しの声は、少し疲れているけれど、弾んでいた。
「急なんだけど……明日の夜、空いてる? 飲みに行こうよ」
突然の誘いに、思考が止まる。
(飲みに行く? 国民的女優が俺なんかと外で会っても大丈夫なのか?)
心配と戸惑いが渦巻き、即答できずにいると、彼女がさらに畳み掛けてきた。
「たける、聞いてる?」
会いたい。その本音が、理性を追い越していく。けれど、あまりに舞い上がっていると思われたくなくて、俺は少しだけクールを装って答えた。
「……ああ。いいよ、大丈夫」
「よかった! じゃあ、時間と場所は後でメッセージで送るね。ホームページもないような隠れ家だから、しっかり住所見てきてよ?」
電話が切れた後、静まり返った部屋で俺の心臓だけが騒がしかった。
(……よし)小さく拳を握る。
久々にあゆみに会える。その事実だけで、モノクロに見えていた日常が、一気に色づき始めていた。

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